量子的跳躍
エネルギー進化論――「第4の革命」が日本を変える
- 2012-05-11 Fri 11:23:39
- 読書メモ
いま変わらなければ、いつ変わるというのか?
3・11のフクシマ以降、日本の原発・エネルギー政策の転換は不可避だ。人間社会のベースがいのちにある以上、もはや原発に頼ることはできない。なぜなら、自然エネルギーが十分に実用可能であり、もはや「必要悪」でさえない原発に頼る理由などないからだ。現在、自然エネルギーはうなりをあげて成長しており、農業革命、産業革命、IT革命に次ぐ「第4の革命」と評されている。本書では、原発事故に至った日本のエネルギー政策の過ちを検証し、あるべきエネルギー政策を地域から再考する。文明史的な変革にいどむために、備えておかなければならない知見をやさしく語った全国民必読の書。
序章 自然エネルギー懐疑派への反論
第1章 フクシマ後のエネルギー――「第4の革命」の奔流
第2章 自然エネルギーの歴史――4つの波
第3章 失われた10年――なぜ日本では自然エネルギーが普及しないのか
第4章 地域から始まった革命
第5章 日本の地域からのチャレンジ
第6章 これからの日本のエネルギーシフト
自然エネルギーってどんなものなの?使えるの?という疑問を解消する序章からはじまり、自然エネルギーの世界での動き、オイルショックや数々の原発事故から始まる自然エネルギーこれまでの歴史、日本における自然エネルギーの普及が遅れた理由、またアメリカや北欧の都市レベルでの第4の革命に向けた取り組みの紹介、日本の地域での挑戦、そしてこれからの日本の向かうべきシナリオを記した最終章と、この一冊で自然エネルギーに関することの多くを学ぶことができる。
特に日本で自然エネルギーが、どのように扱われてきたのかを記した第3章が面白い。自然エネルギー推進を目指す著者自らが、政治家に接触し、ロビー活動を行い、超党派の議員連盟をつくり、官僚を説得し調整し、法案を議論する審議会を経ても、法案が骨抜きにされる…という舞台裏が描かれる。
しかし重要なことは、この国民投票の後で、スウェーデン社会に起きた質的な変化なのです。それまで支配的であった二項対立的な政治モード、つまり対立的な構図のなかで議論を行う空気が消え去り、国民のあいだで合意を形成するために議論を尽くすという風潮がうまれたことです。端的にいえば、スウェーデン社会が二項対立的な政治モードから建設的な対話モードへと変わっていったのです。
もっとも興味深かったのは、このスウェーデンでの国民投票による社会の変化である。1979年のスリーマイル島原発事故のあと、原子力に関する国民投票の実施が決まり、投票までの準備期間として1年の時間がとられた。国民投票は3択、ひとつは原発容認、ひとつは条件付で原発容認、ひとつは原発廃止である。結果はどれも過半数はとれず、条件付で原発容認をどちらに含めるかで、投票結果の解釈は大きく異なることになったのだ。
たしかに、投票結果はきれいに3つに分かれ、決着はグレーではありました。しかし少なくとも、18歳以上の男女全員が1年間、自分たちのエネルギーと環境と社会の未来を考えつくして1票を投じたのです。この経験が、スウェーデンの人たち、そして社会にとって大きな意味を持った。国民全員が1年ものあいだ熟慮や熟議を重ねて、自分なりの結論を出してきたのですから、この経験が原子力とエネルギーと環境の徹底的な国民教育・国民学習になったのだと思います。
いつまでもどこかの偉そうな誰かの言うことを盲目的に信じて、そしてそれが嘘だったとわかったときに、騙されたと喚き、責任を取れと暴れることがないように、だからといっていつまでも、賛成と反対の不毛なディベートを繰り返し、自分の立場を表明することだけに拘泥していても仕方がない。そんなつまらぬ場所で、止まってしまわないために、このスウェーデンの事例を未来の姿として。
猫の建築家
- 2012-05-06 Sun 11:23:09
- 読書メモ
佐久間真人が描く猫は愛らしくも貴く気高くどこまでも猫らしく、その背景となる世界は、どこかでみたことがあるようなノスタルジーに溢れた異国の趣き。写実的でビシッときまった線画のようで、微妙に歪んだパースが夢の世界のようでもある。
猫は建築家だった。
何度か生まれ変わったけれど、そのたびに建築家になる。
なんとも魅力的な一文からはじまるこの物語。猫好き、建築好き、電車好きにお勧めする。
洋梨形の男 (奇想コレクション)
- 2012-05-04 Fri 16:41:08
- 読書メモ
太っているのが嫌なのに太った男 ケニー・ドーチェスターが体験する奇妙なダイエット物語「モンキー療法」。成功した男が、落ちぶれた昔の友人と再会するという、よくありそうな話が、静かに恐怖にかわる瞬間の切れ味がたまらなくよい「思い出のメロディー」。作家が生み出した業との対話が奇妙な世界を開いていく「子供たちの肖像」。ホラ話というか落語というかファンタジーというか、車が好きなひとに贈る一編「終業時間」。いわゆるカールおじさんが持つ、得体の知れない存在感、その不気味さをたっぷり味わうことができる「洋梨形の男」。人生を狂わせた、大学時代のチェス勝負に取り憑かれた男。タイムトラベルというSF的要素をうまく使いながら、チェス小説としても、青春小説としても、楽しむことができる…ちょっと苦味のある爽やかなエンディングは必読「成立しないヴァリエーション」。
ケニー・ドーチェスターは太った男だった。
もちろん、はじめから太った男だったわけではない。オギャアと生まれたときは、ほどほどの体重の完璧に標準的な新生児だった。
ムーミン画集 ふたつの家族
- 2012-05-02 Wed 16:31:01
- 読書メモ
最後に収められているのは、トーヴェ・ヤンソンが国際アンデルセン賞を受賞したときのスピーチ。
日常のうちにひそむ興奮と、空想のうちにひそむ安全のあいだで完璧な均衡をたもてるのは、子どもだけだと思います。みごとな自己防衛の手段です。脅威と凡庸という諸刃の刃をかわす手段なのです。
おそらく子どもの本の作家は、この危なっかしい均衡をとりもどそうとしているのです。日常のつまらなさに息苦しくなり、あの失われた非合理をもとめているのかもしれません。あるいは、恐怖におそわれて、安全な場所への帰り道をさがしているのかもしれません。とはいえ、もっぱら我が子に物語を語っているだけでは、自分はなんの問題もなく周囲に適応し、充足した作家であることもありえます。もしそうだとしたら、お詫びしますが、それでも、やはり自分のために書いているのではないか、との勘ぐりをわたしは捨てきれないでいます。
バリ島ウブド 楽園の散歩道
- 2012-04-30 Mon 17:15:22
- 読書メモ
バリ島のリゾートといえば、ビーチと頭から思い込んでいたのだが、旅行することになって調べたFour Seasons Resort Bali At Sayanのレストランから眺める美しい風景に驚いたことを思い出す。そこから眺めることができるのは、青々とした森、渓谷を流れる川、ライステラス(棚田)……こういうリゾートもあるのかと感心した。結局、行けずじまいのウブド。美しい農村風景は、なぜこんなにも心を落ち着かせてくれるのだろう。
ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔
- 2012-04-27 Fri 16:11:06
- 読書メモ
「自分の限界ってのは、まあそいつが与えられた条件と折り合いつけるようにしてさ、育成環境の中で自分が勝手に決めるんだよ。そんな難しいことはできないとか、ややこしいことはしたくないとか、痛いからヤだとか、八時間以上寝ないと駄目なんだとか、数学は嫌いだとか、そういうのみーんな思い込み」
「思い込み――かな」
「思い込みだって。根拠ないじゃんか。で、まあ大半はその勝手に自分で引いた線より下で暮らしているワケ。だからできて当たり前だし、時にできることもできない」
京極夏彦による近未来SF。連続殺人事件に巻き込まれる少女たちを主人公とした前作、ルー=ガルー ―
忌避すべき狼の続編。前作から3ヶ月後、無色透明な毒の小瓶がキーとなり、物語が動き始める。美少女、バトル、機械、ガジェット、友情、兄妹愛、官僚、政治家、巨大企業、遺伝子、クスリ、マッドサイエンティスト、これらを包み込むSFな世界観など、ラノベ的で、前作を知らずとも読むことはできるるが、読んでおいたほうがより楽しい。
3・11の未来――日本・SF・創造力
- 2012-04-24 Tue 16:10:35
- 読書メモ
真の「無責任さ」は靭さであり勇気なのだ。真の無責任さはまさに無責任であるがゆえに、いまここで悲しみにくれる被災者を即物的な手段で救うことはできないだろう。だが真に無責任であるということは、その宿業を負いながらも、世界に対する透徹したまなざしを持つということなのだ。そうしたまなざしを持つことは容易ではない。多くの人は生得的に持つ共感(シンパシー)の能力によって、目の前の悲しみや苦しみに同情し、刹那的に行動してしまう。それにはよい面と悪い面があり、長期的な復興が避けられない複雑な事態においては悪い側面も社会に強く影響してしまう。
(瀬名秀明)
震災直前まで、家族、地域共同体といった日本における中間共同体の崩壊が「無縁社会」や「孤族」といったキーワードとともに論じられていたことを思い出そう。震災直後には、しかし、日本人は人とのつながりの重要性とありがたみを再確認し、不思議な高揚感に包まれていた。様々な美談がメディアを通じ伝播・反復され日本全体に共有されていった。美談にはとうていなりえない陰惨なこともたくさんあったのは確かだが、美談になりえる人々の無私で利他的なふるまいというのもたくさんあったのだ。「日本人は略奪をしない・暴動をおこさない」と繰り返され、日本人の忍耐強さが改めて確認された。ところが、レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』(二〇〇九年)があきらかにしたように、災害直後に見知らぬもの同士でも相互に助け合う「特別な共同体」が立ち上がることは、洋の東西を問わず確認できる。何も日本に限ったことではない。ただし急いで付け加えるならば、「略奪・暴動が起こらない」とメディアが繰り返し、人々のあいだにも「特別な共同体」の可能性が共有・理解されると、有害なデマが打ち消され適切な救援活動をおこなうことができる。その反対に、「略奪・暴動が起こっている」と誤解されてしまうと――そして現実にアメリカのニューオーリンズをハリケーン・カトリーナがおそったときにそのような間違った情報が伝わってしまったのだが――助かる命も助からなくなる。だから日本に「特別な共同体」が生じたことがひろく理解されたことは人命救助の観点から評価できるのだが、それを日本人が失いつつあった中間共同体を再興したのだと理解してはならない。おそらく、震災の後始末が進むにつれ、震災以前の問題はより強度を増して回帰してくる。なぜならば、何も解決などしていないからだ。ただ一時的に「特別な共同体」とそれに関わった高揚感で問題の形がぼやけただけで。
(海老原豊)
本当に怒るべきなのは、「もう一度日常に復帰したい」と願う老人たちじゃなくて、若い奴ら。黙々とボランティアしているだけで、「どうしてくれるんだ!」と声をあらげていない。福島の人たちだけではなく、今日本に生きている若い者はみんな声をあげる権利があるんだよ。僕らはもういいんだ、「頑張ってもあと二十年か」という世界で生きているから。日本で生きている人間がみんな同じ世界を共有しているわけじゃない。それぞれみんな違う生物学的な時間を生きている。若い人と僕らが同じ世界に生きているわけがない。本来は、それを乗り越えたところに一種の共同体の意識が必要なんだけれど、今の日本にはそんなものはないよ。何故みんなおとなしくしてるの?
これは次の選挙でどちらの党が勝つかというレベルの話ではないんだよ。ある人が、「日本人って夏休みの宿題を出すのが嫌で学校をやめちゃった連中みたいだ」と言っていたけれど、「なるほどな」と思った。学校をやめちゃったから、つまり武装解除して戦争を放棄したから、宿題を出さなくてもいい。僕はその思考がすべてを覆っていると思う。でも、それで何かを解決したのか?
それで本当に平和が担保されたか? 日本の将来が担保されたか?
平和と繁栄に去勢されているからそうなる。もう一度無一文になって廃墟から出発するとすれば、どういう国をイメージするのか?
どういう国をつくりたいのか? 今、被災地で復興がはじまっているけど、復興と復旧は違う。老人たちは日常に復旧したがってるけれど、若い奴らも本当にそれでいいの?
地元には職もないという世界をもう一回つくるのか?
若い人たちから「こういう街をつくりたい」という声がいまだに上がらない。復旧も復興も同じようにお金をつかうわけなんだから、もっと声を上げないと。それに、その予算を捻出するために日本はまたさらに貧乏になる。テレビの向こうの被災地だけの問題ではなく、被災していない自分たちの問題にもなるんだよ。
(押井守)
小松左京による序文ではじまり、小松左京哀悼の編集後記で終わる本書。
津波により破壊された街をテレビで眺ながら、大友克洋のAKIRAを思い出していた。不謹慎ではあったが、物語の世界が現実のものとなった不思議な感覚があった。これは9.11のときの感じた感覚だ。誰もが同じように感じていたのだと思う。SF作家らの言葉は、どこか宙に浮いたまま、力なく静止してしまったかのようで、タイトルにある「未来」を語っているとは思えない停滞感がある。
ぼくらはそれでも肉を食う 人と動物の奇妙な関係
- 2012-04-20 Fri 14:13:41
- 読書メモ
たとえば、菜食主義者のジュディス・ブラックの場合。彼女は一二歳ころ、美味しいからというだけの理由で動物を殺すのは間違いだと考えていた。でも、動物って厳密にはなんだろう?当時ジュディスにとって、イヌやネコ、牛、豚は動物だけど、魚は動物じゃないというのは当たり前のことだった。魚が動物だなんて彼女には思えなかった。この直感的な分類法のおかげで、それからの一五年間、ジュディスは――人類学の博士号を得て――菜食主義者を名乗りつつ、アラスカ・コッパー川産の鮭の燻製や、レモン汁を添えた網焼きの太刀魚を、喜々として味わうことができた(この「動物」という言葉に対するジュディスの勝手きわまる定義が、菜食主義者のあいだではとくにめずらしいものではないことに留意してほしい)。
動物と人間の関係、道徳的な問題について考察する人類動物学について書かれた一冊。
はじめに なぜ動物についてまともに考えるのはむずかしいんだろう?
第一章 人間と動物の相互関係をめぐる新しい科学
第二章 かわいいのが大事―人間のようには考えてくれない動物についての、人間の考え
第三章 なぜ人間は(そしてなぜ人間だけが)ペットを愛するんだろう?
第四章 友だち、敵、ファッションアイテム?人とイヌのいろんな関係
第五章 「高校一の美女、初のシカを仕留める!」動物との関係と性差
第六章 見る人しだい―闘鶏とマクドナルドのセットメニューはどっちが残酷?
第七章 美味しい、危険、グロい、死んでる―人間と肉の関係
第八章 ネズミの道徳的地位―動物実験の現場から
第九章 ソファにはネコ、皿には牛―人はみんな偽善者?
はじめにから第九章まで、本書の章立てをみるとわかるように、ここでは動物と人間関係のさまざまな様相を、いろいろな場面で対比させている。これらを見比べてみることで、それぞれの線引き、合理的な基準ができるのか?ということを問い続けるのが本書の肝である。本書の結論はこうだ。
人類動物学という新しい科学が明らかにするのは、暮らしのなかの動物たち――愛するもの、嫌うもの、食べるものすべて――に対するわたしたちの態度、ふるまい、関係も、やはりみんなが思っているよりもずっと複雑ということなのだ。
本書を読むことで、各種の動物の権利=アニマルライツや動物愛護の議論についてある程度理解することができるが、同時のその極論=一貫性を保つことができないアンビバレンツを理解することにもなる。本書の結論はなんとも頼りなく曖昧に感じるかもしれないが、そのふわふわした感じ、結論というものはとくにない(あらゆるものに線をきっちり引く必要があるのか?)ということが本書の論点なのだ。
装丁のデザイン、そして表紙と裏表紙のイヌとネコの絵に強く惹かれたのだが、驚くことにこの装画制作は、かのムツゴロウ 畑正憲氏によるもの。本書に最適の絵。素晴らしい。
ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足
- 2012-04-17 Tue 21:19:42
- 読書メモ
本書の主張は、「ソーシャルゲームは社会にとって有益である」ということです。
ソーシャルゲームとは、GREE(グリー)やMobage(モバゲー)など、ソーシャルネットワークサービス(SNS)上で遊ぶことができるゲームのこと。
ソーシャルゲームで遊んだことがない人からは、なぜ仮想の有料アイテムにお金を払うことになるのか、そんなにも毎日アクセスするのか、理由がわからないという声がよく聞こえてきます。しかし現実に多くの利用者がいること、多くのお金が使われていることにはやはり何らかの理由があります。本書はその理由を明らかにし、一般性のあるフレームワークとして提示します。
本書の第2部では、ソーシャルゲームになぜハマるのか?という疑問に対する答えがみえてくる。ゲームシステムにおいての、プレイヤーの分類からコンセプト・可視化の仕組みなどをさまざまに分析して、さらに構造化=概念図にまとめ、わかりやすくその機能について説明している。また、『釣り★スタ』と『怪盗ロワイヤル』という二つの実際のゲームを事例として、そのフレームワーク分析を行い、モチベーションの仕組みと課金についてもしっかり言及されている。
本書のサブタイトルにある『ゲーミフィケーション』という言葉。これは、ゲーム、特にソーシャルゲームが持つ様々な仕掛けをゲーム以外の領域に応用することを指す言葉である。人間のモチベーションを維持・向上させる様々なノウハウ=ゲーミフィケーションは、すでに様々な領域に利用されており、本書の第3部でも事例が紹介されている。
なぜこんなにもソーシャルゲームが受けているのか?ハマっているのか?、また顧客満足そのものを変えてしまうゲーミフィケーションというものついて、しっかり学ぶことができる本書。
しかし、本書のまえがきで示される主張「ソーシャルゲームは社会にとって有益である」については、理解できない。ソーシャルゲームのモチベーションを維持・向上させる手法や課金までの流れが確立されていること、ソーシャルゲームが多くの人に支持されていること、ゲーミフィケーションが顧客満足に新しい形を提案していることなどは理解できるが、それが社会にとって有益かどうかということにはズレを感じる。
森の奥の巨神たち ロボットカメラがとらえたアジアゾウの生態
- 2012-04-12 Thu 21:13:46
- 読書メモ
ゾウは最初から長い鼻とキバを持っていたわけではない。今から5000万〜6000万年前に棲息していたイノシシにもブタにも似たメテリウムから派生して、少しずつ現生のゾウの形になっていく過程をたどる。その途中、4本のキバをもつものなどいろいろな形のゾウの仲間が現れ、やがてこの中からゾウ科としてゾウの仲間が生まれた。私の野生ゾウの研究の発端となったマンモス(ケナガマンモス)も、実はゾウ科の仲間である。今から500万年前のアフリカがその発祥の地となる。ゾウ科はロクソドンタ属、エレファス属、パレオロクソドン属、マムートス属の4つに分かれた。マンモスをはじめ何種類かの古代ゾウが淘汰され消えていく中で、ロクソドンタ属はアフリカ大陸に留まって、現在のアフリカゾウとなる。エレファス属は、寒い環境に適応しながら北へ向かっていったマムートス属とは反対に、インド、東南アジアに進出し、生きながらえて今日のアジアゾウとなる。野生のアジアゾウがアフリカゾウと大きく異なる点は、その体の大きさなどよりもその棲む場所であろう。アフリカゾウが見通しのきくサバンナで暮らしているのに比べ、アジアゾウは通年深い森の中で暮らしている。これが調査する側にとってはなかなか難問であり、野生で暮らすアジアゾウの情報が少ない理由のひとつとなる。
巨神と喩えられるに相応しい神々しさを感じるアジアゾウの写真の数々。写真に添えられている文章も、アジアゾウやジャングルの動物たちの生態、またジャングルの動物たちを密猟者などから守るレンジャーたちの活動など、多く深く知ることができる素晴らしいもの。